酪農と文学 連載20
いまさら芥川龍之介についてご紹介するまでもありませんし、読者の方にはなぜ、牛乳や乳製品と芥川龍之介の作品が関係あるのかとお思いの読者が多いのではないかと思います。作者自身歴史物(時代物)に有名な作品がありますが、今回紹介する「一塊(いっかい)の土」に乳牛、それも乳牛の放つ〝へ〟の音がたくみにでてまいります。牧場で草を喰む牛の鳴き声だけが、のどかさや平和のあかしではないことを証明しています。いずれにしても芥川龍之介と乳牛の〝へ〟です。
一塊の土 芥川龍之介 著アマゾンで検索
平和な語らいに聞こえる牛のへ
この作品をとりあげたのは芥川龍之介が乳牛の屁(へ)をたくみに使っているからです。農村や農民を素材にした作品は少ないのですが、都会育ちの作者が牛のへにまで神経をはりめぐらしていたことに驚きます。
田畑一町三反ばかり、乳牛の飼育はほんの自家飲用のため(作者は牛舎のことを牛部屋と表現しているから多分1頭か2頭でしょう)と思えるこの農家のあととりは病で8年も病床にいて死んでいく。後に残されたのは母親と嫁さんと幼い孫の3人暮らし、当然嫁さんは必死になって朝早くから、夜遅くなるまで働きづめですし、お姑さんも懸命に野良仕事に精を出します。
そのうち、お姑さんも年をとり、そうそう野良仕事には出られませんし、なんとかおむこさんをもって欲しいと思うわけですが、この嫁(お民という名前)は頑として後家を通す。お民の働きぶりをこう書いています。
ただ、夏には牝牛を飼い、とあるところが、少々不思議ですが、細かいことは抜きにして、次のようです。
『(前略)実際又お民は男手も借りずに、芋を植ゑたり麦を刈ったり、以前よりも仕事に精を出していた。のみならず夏には牝牛を飼い、雨の日でも草刈りに出かけたりした。この烈しい働きぶりは今更他人を入れることに対する、それ自身力強い抗弁だった。(後略)』と。
お姑さんは早くお民がむこさんをもらって、自分も多少楽をしたいと思い、折りにふれて再婚をすすめるが、なかなかお民さんがその気にならないばかりか、葬儀の時の墓堀りまで、男衆とまじってこなしてしまうくらいなのです。
お姑さんもあきらめ切れないわけですが、野良仕事はお民さんにまかせて日常は次のようなのです。
『(前略)孫を遊ばせたり、牛の世話をしたり、飯を炊いたり、洗濯をしたり、隣へ水を汲みに行ったり――家の中の仕事も少なくはなかった。』
こうなってくると、乳牛の世話はお姑さんの仕事というわけです。
隣の農家にもお姑さん(ここの嫁さんは全然野良仕事はしない)がいます。夏の真昼、ぶどうだなの下で2人の老婆は少なくとも表面上は平和にお互いを語り合います。ここで乳牛の〝へ〟の登場です。
『(前略)「でもさあ、今の若え者は一體に野良仕事が嫌いだよう。――おや、何ずら、今の音は?」「今の音はえ?ありゃお前さん、牛の屁(へ)だわね。」「牛の屁かえ?ふんとうにまあ。――尤も炎天に甲羅を干し干し、粟の草取りをするのなんか、若え時にゃ辛いからね。」2人の老婆はかう云ふ風に大抵平和に話し合ふのだった。』
ぶどう棚(だな)の陽かげでのんびり語り合う老婆、聞こえてくる牛の〝へ〟、なんともおだやかで、のどかな感じが浮きでてこないでしょうか。
若くして自殺するくらいの文学者ですから、人の話しだけでこの短編を書いたといわれますが、常人とは一風変わった神経がはりめぐっていたのでしょう。
古今東西、動物の生態についてならともかく、自分の作品に乳牛の〝へ〟をとりあげたのは芥川龍之介くらいのものでしょう。
その後のあらスジは、またまた墓掘りに行ったお民が、チフス(死んだ人がチフスだったため)に感染し、あっけなく死ぬ。
そして葬式の夜、床についたお姑さん(お住という名前)は、うらみつらみを考えるが結局は「お民、お前なぜ死んでしまっただ?」とつぶやきとめどなく涙を流し、疲れきって眠りにはいっていくところで終っている。
本連載は1983年9月1日~1988年5月1日までに終了したものを平出君雄氏(故人)の家族の許可を得て掲載しております。