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この欄でいろいろと酪農や牛乳、乳製品など文学とのかかわりを紹介してきましたが、酪農家と乳牛が洪水という大自然の恐怖に立ち向かうといったドキュメンタリー調の作品は世界のどこを探しても見当たらないと思います。伊藤左千夫は歌人でもありますから「水害の疲れ」と題して六首の歌をよんでいますが、その中の一つに『闇ながら夜はふけにつつ水の上にたすけ呼ぶこえ牛叫ぶ声』とうたっています。洪水が去った後日、しみじみと歌をよんだと思いますが、この作品を読んでから、この歌を読み直すと、ある種の戦りつを憶えます。

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大洪水に立ち向かう 闘う男達と乳牛

1985-11-01

この作品は酪農家でもあった伊藤左千夫の面目やくじょたるものがあります。


左千夫は酪農業をやっている間に3回ばかり洪水に見舞われています。この作品はその中でももっとも大きな被害をうけた時のもので、牛舎が大洪水にあうとこんな状況かと驚かされます。


豪雨は夜を徹して鳴り通して、2夜と1日、36時間タライの水をひっくりかえしたように降った。降るだけではなく、現在の国鉄錦糸町周辺で、あちこちの川があふれてしまったからすざまじい水害となったわけです。


人間はなんとか逃げ出す工夫ができるとしても、問題なのは乳牛達です。


へ理屈を言ってるひまはありません、家族を避難させ、一夜しのぎといえども1時間に1センチばかり水が増えていく牛舎をみては乳牛をなんとかしてやらねばならない。


川のはんらんする前夜その模様を次のように書いています。


『五寸角(かく)の土台数10丁一寸厚みの松板10枚は時を移さず、牛舎に運ばれた。もちろん大工を呼ぶ暇は無い。3人の男共を指揮して数時間豪雨の音も忘れるまで活動した結果、牛舎には床上(ゆかうえ)更に五寸の仮床(かりゆか)を造り得た。かくて20頭の牛は水上五寸の架床(かしょう)上に争うて安臥(あんが)するのであった。燃料の始末、飼料品の片づけ、為すべき仕事は無際限にあった。』


仮の牛床で一時しのぎはしたにはしたが周囲の川という川がはんらんしたからたまりません。


床下5センチとかなんとか言うならば別ですが、胸にまで水深がとどこうという状況ですから想像を超えます。


牛達を避難させるため、左千夫は猛然と戦闘を開始します。


『天神川もあふれ、竪川(たてかわ)もあふれ、横川もあふれ出したのである。平和は根底から破れて、戦闘は開始したのだ。もはや恐怖も遅疑(ちぎ)も無い。進むべきところに進む外(ほか)、何をかえりみる余地も無くなった。家族には近い知人のに二階家に避難すべきを命じ置き、自分は若い者3人を叱(しっ)して、乳牛の避難にかかった。(後略)』


ここには歌人も小説家もいない。いるのは屈強な酪農家左千夫です。


こうして一時的に高圧線のある線路端に乳牛20頭を引きだすわけですがそのすさまじいこと。


こうなると両手に愛牛をひいて水中を泳いでいるような感じさえ受けます。泳ぐといえばきこえはいいが、ありとあらゆる物、汚物が流れ、ただよう中です。


牛があばれて引っぱるからドブに頭まで沈められてしまうが、それでも左千夫は水と闘う。


『なれない人たちには、荒れないような牛を見計らって引かせることにして、自分は先頭に大きな赤白ぶちの牝牛を引出した。(中略)鉄橋の下は意外に深くほとんど胸につく深さで奔流しぶきを飛ばし、少しの間流れにさかのぼって進めば、牛はあわて狂うて先に出ようとする。自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつつ水に咽(むせ)て顔をまともに向けて進むことはできない。(中略)水中に牛もつまずく人もつまずく』


これからがまた大変なのですが一時避難してさらに線路づたいに両国方面に逃げのびる。


国鉄はわけのわからない理由で酪農家左千夫をいらだたせる。線路端に牛なんか避難させて、とか、線路を使って牛を引きつれて移動するのは違反だ(大洪水の中で汽車など通るはずもないのに)とか。


その前の状況を次のように描写している。


『水は1日に一寸か二寸しか減じない。5,6日経っても七寸とは減じていない。水に漬(つか)った一切の物いまだに手の着けようがない。その後いくたびか雨が降った。乳牛は露天(ろてん)に立って雨たたきにされている。同業者の消息もようやく判って来た。亀戸の某(なにがし)は16頭殺した。大平町の某は14頭を、大島町の某は犢(こうし)10頭を殺した。(後略)』と。


この後、仲間の好意と協力で無事両国に乳牛20頭を死なすことなく避難させますが自然の猛威のなかで、酪農家と乳牛が一体となって移動する描写は胸のあつくなるドキュメンタリーです。

本連載は1983年9月1日~1988年5月1日までに終了したものを平出君雄氏(故人)の家族の許可を得て掲載しております。

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