酪農と文学 連載23
正岡子規は慶応3年に愛媛県の松山市で生まれました。36歳で病死する短い生涯ですが俳人、歌人としてあまりにも有名です。友人に夏目漱石、その弟子に、牛飼い左千夫(伊藤)、高浜虚子、長塚節、河東碧梧桐などがいたことでもわかります。
「病床六尺、これが我世界である」。身動きもままならない病床で句を作り、随筆を書きつづけた。書くことと、食べることが、生きている〝あかし〟の証明であったにちがいない。 病気に牛乳がとてもいいことは、酪農をいとなむ弟子の伊藤左千夫(小説野菊の墓の作者)がすすめたにちがいない。明治36年頃、牛乳や牛肉、乳牛についてふれた文学者はそうはいまい。酪農家で作家だった伊藤左千夫を別にすれば――。
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酪農家保護して もっと牛乳消費
作者は「病牀(びょうしょう)六尺」という随筆の中で酪農家をいじめるな、と言っています。
この作品は明治35年に作者が病気の床にふせながら雑誌日本に連載を続けたものですが、結核、カリエスで身動きもできないような苦痛の中で生まれた作品で、一連の随筆集に接すると作者の苦痛、もだえ、泣き声が切ないほど伝わってきます。
麻ひ剤を打ちながら書きつづけます。世の中の腹のたつこと、しゃくにさわること等を・・・・・。
子規のお弟子さんに、酪農家で歌人で小説家の伊藤左千夫がいたわけですが、警視庁への批判も多分左千夫の話しが土台になっていることはまちがいありません。
自分の弟子が、現在の錦糸町駅前で乳牛を飼育していたわけですが、枕元で、警視庁から牛舎を改築しろとか、移転しろとか、うるさく言われており、なんで酪農家をいじめるのか――とでも左千夫が言ったかも知れません。また、改築や移転にはそれ相応の犠牲と経済的な負担もかかる「まったくやりきれませんョ」などと言ったかも知れません。
左千夫はそれ以前に水害によって牛舎をやられたりしていますから、師匠の子規にしてみれば、酪農家左千夫の話しは多分腹のたつことだったのでしょう。
そこで、6月25日の44回の病床からの随筆に警視庁批判を次のように書いています。
『警視庁は衛生のためという理由を以て、東京の牛乳屋に牛舎の改築または移転を命じたそうな。そんなことをして牛乳屋をいぢめるよりも、むしろ牛乳屋を保護してやって、東京の市民に今より2,3倍の牛乳飲用者が出来るようにしてやったら、大いに衛生のためではあるまいか』と。
この頃は公害問題は警視庁の仕事だったのでしょうが、酪農をより奨励して、飲用牛乳消費に力を入れるべきではないか、といっているわけですが、牛乳の価値を充分認めていなければ、書けないことです。
子規はあおむけになって絵筆をとったわけで、発表する気はなかった「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」の日記をみると、ほとんど毎日のように牛乳を飲んでいることがわかります。
この作品の中では、牛乳だけのむ時と、ココアや茶、時にはおかゆに牛乳をかけてのんだりしていますが、日記の中で「牛乳来らず」などと配達されなかったことも記録しています。
また、ある月の子規家の家記簿がのっています。家賃6円50銭が最高で32円72銭3厘の支払いのうち牛乳代は1円48銭5厘ということですから、このころとしては結構牛乳を飲んでいたことになります。
子規は4つの病床随筆を書いているわけですが、その中の「墨汁一滴(ぼくじゅいってき)」の中で乳牛の改良と乳質のこと、牛肉の質など、さすが弟子の左千夫が酪農家だけに興味ある文章を書いています。
多分、こうしたものの考え方も病床にあって酪農家左千夫との語らいの中から得たにちがいありません。
『日本の牛は改良せねばならぬといふから日本牛の乳は悪いかといふと、すこしも悪い事はない、ただ乳の分量が少ないから不経済であるといふのだ。また牛肉は悪いかといふとこれも、牛肉は少しも悪い事はないのみならず神戸牛ときたら世界の牛の中で第1等の美味であるのだ、それをなぜ改良するかといふに今の日本牛では肉の分量が少ないのに食物は割合に多く食ふからつまり不経済であるといふのだ。』
その他に、乳牛の習性と人間のしつけのことをからませた随筆などありますが日記の中で牛乳ののみ残しについて、次のように書いています。 『(前略)自分の内でも牛乳を捨てることが度々(たびたび)あるのでいつでもこれを乳のない孤児に呑ませたらと思ふけれども仕方がない、何かかういふ処へ連絡をつけて過を以って不足を補ふやうにしたいものだ』
いずれにしても、子規の作品で、牛乳や乳牛が登場するのは、牛飼い歌人であり、子規の弟子である左千夫の影響が大きかったことは確かです。
本連載は1983年9月1日~1988年5月1日までに終了したものを平出君雄氏(故人)の家族の許可を得て掲載しております。