酪農と文学 連載47
オランダに次いで早くからホルスタイン種の乳牛が飼育されていた西ドイツのホルスタイン州で生まれたヘッベルは小さい頃は非常に貧しい環境に育った。苦学の末に作家として名声を得たわけですが、このヘッベルの短編作品に牝牛(めうし)」という小説があります。今回はこの西ドイツの作家ヘッベルの作品を紹介します。
多分ホルスタイン州の生れですから、この地方に乳牛1頭から酪農家となっていった農家を目の当りに見たり、そういう酪農家の苦労話がもとでこの短編小説が書かれたと想像します。乳牛1頭を導入するお金をわが子が焼いてしまいます。頭にきた親父は2歳のその息子を殺し、自分も首つり自殺するという、すさまじい悲劇です。
牝牛(めうし)ヘッベル短編集よりアマゾンで検索
導入資金は灰に 人も牛も焼死体
先ず、1頭の乳牛から。ツメにろうそくの火をともすようにして乳牛1頭の導入資金をためた農夫が、突然その軍資金を焼失したとしたら――。
何故、焼失したかは問わないとして、あなたなら、どうしますか。再び挑戦の意欲に気分を変えますか、それとも頭にきて乳牛の導入はあきらめますか。
この作品に登場する農夫アンドレアスは、そのいずれでもなく、自ら首をつって死んでしまうのです。
〝首つり自殺〟とはおだやかではありません。落胆と失望のどん底で発作的に自殺するには、それなりの説明がつかないことには納得できません。まして、乳牛1頭分ですから、今のお金にして、4,50万円でしょう。
さて、作品の中に入ります。農夫アンドレアスは朝から上機嫌です。ついに待望の乳牛1頭を買うことができる。妻が仲買人とともに、もうすぐ乳牛をつれてもどってくる。
その時に支払う乳牛導入のための紙幣をたんねんに、思い出をこめてかぞえる。このやぶれのある金はあの時に手に入れた金だ。この涙のしみのある金はあの時、胸のしめつけられるような悲しい思いをして得た金だ。これもそうだ、この金もそうだ、とため込んだ金への追憶はあとをたたないのです。
節約家のアンドレアスは1週間に1度しか吸わないパイプにさえ煙草をつめずに、金勘定に夢中です。かたわらには、2歳の長男が無邪気に雄鶏などとたわむれています。
彼はわが子に話しかけますが、まだ2歳ばかりですから父親の話しかける内容を理解するまでにはいきませんが、アンドレアスは一向におかまいなく息子に話しかけます。要するに上機嫌なのです。
『(前略)「今日のうちにも、うちの2匹の驢馬(ろば)にはお友だちが来るんだぜ。お父さんはやっとこれまでにこぎつけたんだ。牝牛(めうし)が今にもやって来るんだ。お前は大きくなったら、馬を手に入れなきゃだめだぞ。わかったかい」』と。
導入資金は大切に古新聞につつんでおいたのですが、神経がたかぶっているのか、その古新聞をまるめて、ろうそくの火に近づけ、もやします。
『彼は紙幣の包んであった、古い、破れた新聞紙をテーブルから取った。「もうこれはいらないんだ。」と彼は、それにろうそくで火をつけながら、いった。「今日のうちにも、この金は家を出て行ってしまう。粉挽きのやつきっとついて来るからな。おれがあいつだとしても、やっぱりそうするだろうさ。』
まあ、いらない新聞の包み紙をもやすのですから、どうということもない。しかし、この作品、農夫アンドレアスの悲劇の導火線はここから始まったのです。彼の息子が、赤々と燃える新聞紙に目を輝かせてみつめていたのです。
〝火遊びすると、寝小便するぞ〟こういったおどし文句は大人の創造した言葉でしょう。
親の行為をまねて、同じ行動をとったからといって、どうして子をせめられるだろうか。さて、妻と乳牛の来るのが遅い、いらだちの気持ちをおさえて、アンドレアスは家の外に出る。
外は暗く、霧がたちこめていた。霧の彼方から「モーッ」という声がいまにも聞こえてくるのを期待しながら……。
彼が外にさえ出なかったら。そうです、息子は紙の燃えるのに大いなる興味をもって、テーブルにはい上がり、お金を次々に燃やしてしまったのです。
父親が家の扉をあけて入って来た時、息子は無邪気にも父親にねだった。
「もっと――」
『「もっとだと、こん畜生め。」と彼は絶叫すると、小さな息子にとびかかって、もう前後のわきまえもなく、その髪の毛を引っつかんで、いま自分をかんだばかりの毒蛇でもたたきつけるように、憤然として息子を壁にたたきつけた。』
くどくど解釈はいらないと思います。農夫アンドレアスの悲劇は最高潮に達したわけです。それにしても頭蓋骨を割られ、脳髄を四散させ、とは、あまりにもショッキングな身内の死です。牛を買うためにコツコツためたお金を燃やした2歳のわが子を壁になげつけて即死させる。
なんともすさまじい。父親は重なる悲しみの衝撃に死を決する。それも首をつって果てるという異常な程の過激さだ。
買い取った牛をつなぐために置いてあったロープを手に父親は二階の納屋に上って、首にロープをかけ、自らの生命を断つ。
家にもどった奥さんはわが子の無惨な姿に気を失ってしまう。乳牛と一緒にやってきた少年は異様な恐怖の中で、さらに2階の納屋で、買い取り手の主人の首つり人間の両足に首をつっこむ。
『(前略)頚(くび)と肩とをあとから押し込んだとき、彼は何かある物から来る抵抗にぶつかった。(中略)すると何だか非常に重たい人間が、自分の首筋へ馬乗りになったような気がした。(後略)』
少年は次々に襲いくるショックにろうそくを投げ出す。納屋にあったワラに火がうつる。あっという間の大火災。
火事場からは、いくつもの人と動物の焼死体が発見された。その中に、その夜から家族の一員となる牝牛の焼死体もあった。
本連載は1983年9月1日~1988年5月1日までに終了したものを平出君雄氏(故人)の家族の許可を得て掲載しております。