後継者、酪農女性に贈る牛飼い哲学と基礎技術
連載5
搾乳時の衛生管理 消毒薬より「手洗いを」 手指には菌7千万 残存菌に薬品、手袋
生産現場の消毒をとりあげる。SARSの流行で、幼児への衛生教育と「しつけ」であった「手洗い」がクローズアップされた。また、医療最先端の大病院内での「院内感染」で医者も犠牲になった。テレビは病院・空港・ホテルを丸ごと消毒する現場を放映し、ドアの取っ手まで清拭消毒している。
これが生産現場の搾乳衛生とだぶって見える。生乳の細菌汚染、乳房炎がもたらす体細胞汚染への予防対策として、野外の作業衣を着換えて搾乳専門衣を着用(SARSでは防護服)・搾乳者の手洗い・搾乳用手袋の着用を基本とする衛生管理を全国的に指導してきた。
とくに搾乳者の「手指」から黄色ブドウ球菌(毒素産生食中毒菌=黄ブ菌)が牛へ、牛から人へと加害被害を常在化している。大メーカーの黄ブ菌食中毒事件の汚点も残した。
SARSは院内感染で拡大したが、酪農レベルでは舎内感染が常在化している。病院丸ごと消毒が功を奏しているが、牛舎丸ごと消毒は滅多にお目にかかれない。月に最低2回は舎内消毒を。さもないと舎内細菌は2週間で元の菌数に汚染増菌していると、別海農共済診療所が実践データーを発表して、すでに33年を経過している。
この牛舎丸ごと消毒の基本である舎内清掃の「くもの巣」対策すら解決をみていない。残念ながらいまだに「乳房炎」の撲滅はほど遠い。
単なる「しつけ」とみなされてきた「手洗い」に、大学病院の外科・手術室の関係者が論理的に「メス」を入れて「手洗いの科学」を出版(古橋正吉『院内感染を防ぐ手洗いと消毒のコツ』 日本医事新報社)。この本を参考に「手洗い」の歴史からまとめてみる。
消毒の歴史の幕開けはパスツールのブドウ酒の発酵の研究で、酵母や乳酸菌という「微生物」の存在を唱え、当時の宗教的「生物の自然発生」説を否定する大発見から始まる。ブドウ酒を55度数分加温して微生物を殺し、酒味は確保・変敗をも防止する、この低温殺菌法を確立し、功績を称えパスツリゼーションと呼ばれている。パスツールは1877年に手術器具を物理的加熱法で殺菌する「無菌法」を考案し院内感染の理論的防止を実現した。
このパスツールより20年ほど前にボストン大学で、産褥熱の死亡者が1割をこえているのに助産所での発病がないことから「医者の手・医学生の手」による院内感染に気付いた。医者の手を「次亜塩素酸で洗え」と手洗い消毒が開始され、2年後には死亡率が1%にまで激減した。
英のリスターは下水管の悪臭除去に石炭酸(石炭タール製剤)を流すことにヒントを得て、手術室・器具を石炭酸で消毒した(1867年)。石炭酸の防腐効力を用いたので「防腐法」と称し1875年頃には一般に普及し、現在も、新しく開発された消毒薬の殺菌効力を判定する基準に、チフス菌を用いて石炭酸と新薬の殺菌最低濃度を比較した石炭酸係数で力価を示している。
1886年にシャンペランがパスツールの加熱無菌法を改良し加圧加熱(圧力釜)オートクレーブを考案し、殺菌消毒レベルを滅菌レベルへとグレードアップさせ、現在も大活躍している。だが、BSEなるプリオン病原体はこのオートクレーブも歯がたたない曲者で、圧力を倍増し温度を高めてようやく滅殺できるようだ。
このように加熱や薬物によって器具や食品は殺菌効果が期待できたが(完璧な無菌ではないが)、生身そのものである「手指」は加熱殺菌は不可能である。そこで殺菌ゴム手袋の着用が1890年頃から開始され、日本では1930年頃にメリヤスの手袋を着用したという。
1887年、フェルプリンガーが「10分間の手洗いの後、消毒アルコールで3分間清拭せよ」と現行の基本を考案した。1938年にプライスが科学的検証を「手洗い」に実施して、手指にはどの位の細菌が存在するかを推定した。
ここで推定というのは(手指を切り取って培養するわけにはいかないので)16個の滅菌水入り洗面器を用意し「手指を2分間ブラシで洗浄」を洗面器ごとに8回くりかえす。さらに消毒液に手指を浸漬し充分に消毒液を洗い流して、再び2分間のブラシ洗浄を8回くりかえす。そして16個の洗面器の洗浄水中の細菌を培養して、各段階の細菌数の変化や菌の種類を測定し、総合計した菌数傾向から手指の菌数を推定したものである。
手指には7千万(10の7乗)個の細菌が付着または生棲し、初回の手洗いで2千万個以下が除菌されたが3回目からは数百万個、8回目でも150万個が除菌、中間の消毒薬使用で1千400万個が除菌、手指になお400万個が残存し、16回目でも160万個が固着していた。
まとめると、手洗いで菌数は減少するが、減少割合と傾向が個人特有で数年に及んで持続した。これは各人の皮膚組織の差と思われる。
また、洗っても洗っても数百万個が残存し、最終16回目でも12万個が除菌され、70%の人が200万、残り30%の人は1千万個の菌が頑固に残存していた。最悪なことは、残存する主力細菌が病原性黄色ブドウ球菌と大腸菌だから。推計からは2時間半に及ぶタワシ洗浄でようやく「零」に近づく事になるが生身の手指はとても耐えられない。そこで消毒手袋を着用しよう。
薬物依存の現代人好みの「消毒薬のみの殺菌」は水洗だけの場合より菌数が10倍も多かった。やはり充分な手洗いをして、残存菌に対して薬を用いることが原則である。消毒薬によっては、皮膚が軟化し皮膚深部に生棲する菌が表面に出る「増菌」現象がみられ、これは搾乳時の乳頭を濡らしたままテートカップを装着するのと同じ状況で、細菌汚染の因であった。
患者に密着する看護師の方が医者や一般人より、幸いなことに1~2ケタ細菌数が少ないという。これは定められた3分間の手洗い遵守時間について、医者の平均2・6分、看護師は3.2分が示すように職業意識が高く、手抜きがないからだ。酪農家も見習うべき所である。
ところで牛体表の汚染菌はどうだろう。意外と肛門周辺は清潔であり乳房は最悪であるが、外科学からは背・?部(四変手術部)と臍部(へそヘルニア)を比較すると、ブラシ洗い前は背・?部は1千万台、臍部は億台と1ケタ多い。ブラシ洗い後も臍部は億台で変化なし。背・?部は数十万と明らかに除菌されていた。
なお、縫合糸周辺の化膿発症には200万~800万個の菌が必要といわれているが、四変手術部位より臍ヘルニアが化膿しやすいわけが納得されよう。局所はフィルムで化膿防止する必要がある。
生身の消毒は完璧を期しがたいが、看護師同様牛飼いもプロである。基本を忠実に実行すること。
女性の6割が手荒れに悩んでいるが、傷に多く生棲する病原性大腸菌・黄色ブドウ球菌の伝播防止のためにも搾乳用手袋着用が必須である。
本連載は2003年5月1日~2010年4月1日までに終了したものを著者・中野光志氏(元鯉淵学園教授)の許可を得て掲載するものです。