後継者、酪農女性に贈る牛飼い哲学と基礎技術
連載60
家族経営協定のススメ やる気を起こす原動力に 労働者からパートナーに共同経営という位置付けに
新学期が始まって1カ月が過ぎた。5月に入るとすぐに連休となり、学校に通う後継者達も帰省することだろう。また、学校を卒業して帰農・就農した酪農家も多いだろう。
酪農経営体にとってここ数カ月は特に激動期で、毎年どこかの親子の会話が先鋭化し「嫁と孫一家が家出した」などといったこともしばしば見聞している。
筆者は通算10回目のインドネシアでの酪農指導を終えて帰国した。現地では、朝起きたらようやく分娩を迎えた母牛と生まれたばかりの子牛がともに死んでいた。まさに50年前の日本酪農を再現しているようだ。
そこで、過去の苦い体験や危機管理の克服経過などを後継者諸君に「鉄は熱いうちに」ということで、色々と伝承してやる気を誘発したい。
農業経営の基盤でもある家族経営をスムーズに発展させていくために「家族経営協定」を文書化して締結している農家は全国で3万5千戸を越え、そのうち1割が畜産農家だ。「親子であるから」と昔風にお互い遠慮して文書化してないが、一押しで近所の仲間にも励みになれる酪農家に、後継者にもやる気を起こす原動力として「協定締結」を急がせたい。
ここで、10年前に東京農業大農業経済学の五條満義先生がインターネットに「家族経営協定」の解説をされているので紹介する。
家族経営協定は、農業に従事する個人の地位の確立や経営管理の近代化を目指して、家族内での話し合いを進め、必要なルールづくりを行う取り組みである。
かつて昭和30年代、40年代にも、農業後継者等による農村の民主化運動を背景として、各地で親子契約や家族協定農業等の普及が行われた。
この運動を今日的な視点から推進するため、近年は、家族経営協定の名称で推進されている。若者、特に女性の経営参画を図り、家族経営をいわば家族構成員のパートナーシップ経営(共同経営)と位置付けることを理念としている。
家族経営協定で取り組む契約項目は、経営や生活の実態に応じて、それぞれの家族が話し合いを重ねて作成して行くもので、その内容は大きく次の4点に分類される。
① 報酬や休日の明確化等をはじめとする就業条件の協定
② 簿記の記帳や経営方針の樹立等の経営展開に関する協定
③ 円滑な経営移譲や相続に関する世代交替の協定
④ 家事分担や多世代の住まい方(嫁や高齢者)を含む生活条件の協定
家族農業経営の発展方策を明らかにする一環として、家族経営協定の取り組みに注目する必要がある。また、各地の家族経営協定の推進状況は、協定を結ぶにあたって、農業士会での勉強会、普及センターの勧め、息子の大学卒業・研修終了に伴う就農や結婚が大きなきっかけとなっている。
親夫婦は以前から話し合いながらやってきたので、あまり変らない思いがしても、息子の嫁の親は農業と関係のないところで育った娘を農家、しかも休みのない酪農家に嫁がせた不安は相当なものがある。その点で、協定の締結までには時間がかかっても、家族の給料や役割分担を明確にすることで無事決着できた。
さらに、長野県農業経営者協会からは、家族経営でも企業センスに学ぶべき点を手本として、作業・仕事を分担し、一致協力して、労働時間、給与などを明記してルールを守ることで女性達は活力向上し、家族全体にやる気が充満してくることを実感したとの報告があった。協定締結以前と比べて、息子夫婦は生活にメリハリができ、楽しく酪農ができているそうだ。
また、企業に就職していた家族が両親らの老齢化や本人の停年後の生き方を考えてUターンして帰農する人も珍しくなくなった。
ゆとりの実現と個人、特に女性、嫁を尊重した農業経営は、早期の経営移譲で若者に責任とやる気を育成するためにも、就農と同時に、または早期に協定を締結し、さらに後継者の就農時には経営を改革転換させる。
例えば、新規部門の育成施設や受精卵移植の肉牛部門の責任を出発時から一切任せて分担させた牧場がある。そこに至るには、帰農、就農前から親子間に経営方針や就業条件の協議・話し合いがあったはずだ。
最近の親達はかつて自らが体験したように、息子や嫁を従属的な労働者としてではなく、パートナーとして尊重して、優れた経営者となるための養成を図ってきた成果の現れだ。
また、親離れの時期を早めることで息子が社会人として早く成長し、また農業経営そのものも早く習得できてくるものだ。孫が大学生だというのに財布も預けられない「部屋住まい」生活をさせるなどは払い下げだ。
私事ながらインドネシア・スラベシ島にある日本では富士山に匹敵する山岳地帯でイスラム部族の人たちに酪農指導してきた。そこでは、水牛をホルスタインに切り替え、学校給食に乳を供給しようと現地の医師団が島根県の三瓶開拓の酪農民との友好促進を開始して10数年が過ぎた。
医師団は、赤道直下から広島大学に留学して医学を学びその間、零下の雪中で暖かい乳を搾って飲んだ三瓶開拓の牛が忘れられない医者達。中には現在、医大の学長を務める者もいる。筆者が参加してから5年がたち、先述の通り通算10回の渡航を果たした。筆者は現在、牛のようにそこでの経験を反芻している最中である。
貧しい人たちの乳牛たる山羊も祭事用として到る所で飼われている。山羊は1年に2回分娩するが、子山羊を早く成長させて換金するために乳は搾らず、まさに和牛の自然哺乳そのもので、乳を飲む文化は日本人より更に縁が薄い。
水牛の乳は濃厚だが僅少で貴重品だから、めったに口に出来ない。日本のJICA(国際協力機構)が援助して現在30万頭のホルスタインをジャワ島に定着させ、そこから半月かけて他の島に送る。各島では導入が始まったところだ。
導入先ではいきなり初妊牛を導入したため、分娩しても片手で搾る。エサの穀類は人間優先で、山羊のように潅木だけではまず発情しない。ようやく妊娠させても残念ながら急性鼓張症、起立不能、子宮脱であっけなく死亡。今回は死亡報告ばかり聞かされて、畜主より私の方が落ち込んでいる。
幸いなことに、5年を経過すると5頭も搾る人物が出て、彼を中心にバイクで片道2~3時間かけて集まって勉強会を開いている。
まだ電気が普及せず、牛乳を保存するために女性達が加熱加工して生チーズやコンデンスミルク、乳酸菌飲料を手作りする講習会も開けるようになった。数戸だが発電機を購入し、家電製品を揃えるまでに生乳加工販売実績が実現している。
県の畜産課の職員は女性が7割を占め、中には執務室で赤子を揺り篭に寝かせ、交互にあやしながら執務している。まさに「乳の文化」がイスラムの女性達にも芽生え始めている。
本連載は2003年5月1日~2010年4月1日までに終了したものを著者・中野光志氏(元鯉淵学園教授)の許可を得て掲載するものです。